実家暮らしの手帖

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着たい服・着るべき服・着てはいけない服

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四十にして惑わずなんて、そんなのとても無理だ。

小さい頃からよく迷子になる子どもだった。40を超えて久しい私は、ゆく川の流れの絶えずして、昨シーズンまではたしかに素敵に着こなせていたはずのスカートがある日突然似合わなくなるといった、あまたの現実に直面してよりいっそう迷走している。

 

世界的なファストファッションの浸透でここ十数年でファッションのエイジレス化が進み、もはや服装だけで年齢を判断しては見誤るケースも増えつつある。

父と息子が同じメーカーの色違いのシャツを身につけ、母と娘がしばしば互いの洋服を共有し、同じお店でお買い物を楽しむなんてこともそう珍しくはない。

だからつい、自分好みの洋服を妄想の自己像に当てはめて、試着もせずに買ったは良いがお風呂上がりのファッションショーで無慈悲に期待を玉砕され、こうした間抜けな一人芝居を繰り返しながら、徐々にシビアな自己像を甘んじて受け入れるのである。

「自分が着たい服は必ずしも自分の着るべき服ではない」

これは二十歳の頃には絶対に気づけなかった発見である。いや悟りである。若さという無敵のパワーで、どんなファッションでもそれなりに着こなせた傲慢な時代はすでに去った。

何をしみたれたこと言ってんのよ年なんか関係ないわ誰がなんと言おうと好きなものは好きだから着ちゃうんだもーん、という明確な自己表現をファッションで貫ける人は小気味好くいっそ清々しい。

しかし私のような小心者は季節が巡るたび刻々と変化する自分にふさわしいスカート丈に毎年翻弄され、少しでも顔映りがよく見えるトップスを探し求めて三千里の旅を続け、次第にぼやけつつある身体と世界の境界線をトリッキーに切り取ってくれるデザインについて、姿見の中の自分とサシで向き合い延々と検討するのである。

どんなに愛情があっても今の自分が「着てはいけない服」をクローゼットから除外することはまだ容易い。流行遅れでもはや化石となったジャケットやワンピース、経年変化で物理的に役目を終えた擦り切れたジーンズたち、膝小僧と二の腕を包み隠さず露わにする今では怖ろしいほど軽々しい布切れの数々、どう見てもこれはマズいと思われるリボンやフリルのついたパステルカラーのアンサンブル等々。

こうしていよいよ課題の本質、果たして今「着るべき服」の選定に取り掛かるのだが、これがどうしてさっぱり決まらない。

主観的欲望が着たいと求めるファッションを客観的審判が判断して認可を下す、その結果としての「着るべき服」がはたして自分にとって本当にベストな選択なのか、その時の気分や体調によってちょっとは冒険したりあるいは専守防衛に徹したり、一口で着るべき服といえどケースバイケースなのではなかろうか。

こうして考えあぐねて思考が「好きな男・選ぶべき男・選んではいけない男」との意外な類似性にまで延長拡散したところでついに匙を投げた。

あーあ。

襟が違う、色が違う、丈が違う、値段が違う。

ごめんね、さっきの服とまだ比べている

私はおそらくこんな風にこれからも迷える羊のまま奥深いファッションの森を惑いながら彷徨い続けるのだろう。

だけど森の中には私と似たような羊が他にもきっとわんさかいるに違いないから、それはそれで楽しそうだな。