実家暮らしの手帖

食う寝る遊ぶに住むところの機微を綴るブログ

新米ラプソディ2019

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9月某日

雨上がりの午後、平たい盆地の真ん中を一直線に伸びる長い道路の脇に広がる、黄金色に染まった稲穂の群生が一斉に頭をもたげて風にそよぐのをフロントガラス越しに眺めながらのんびりと車を走らせる。

豊穣の秋ハズカム。新米カミングスーン。

もともと年季の入ったごはん党で、お米以外の主食を口にするのは年に数えるほどしかない。専ら食べるばかりで自宅から車で10分と離れない田地で育つ稲たちが、実際にお米となって食卓に上るまでの具体的な行程などは皆目わからない。それでもこの季節、収穫間近の肥えた稲穂が一面ざわざわと波打って風に靡く様子に行き当たれば、天然自然の美がもたらす圧倒的な説得力に素直に感動する自分になんだかほっとするのである。

 こんな風に秋という季節は無粋な私にとってすら、至るところ美し過ぎて目のやり場に困るほどだ。おまけにそれまで眩しい真夏のテンションでなんとかごまかしていた様々な矛盾や懐疑や迷いや葛藤に刻まれた心のフォルムの陰影を、長さを増した夜をかけて柔らかな光が微に入り細に入り容赦なく映し出す。

おかげで楽しみにしていた新米の季節だというのにここ半月ほど胃腸炎のような症状が続いてなかなか食が進まない。空腹は感じるのにみぞおち付近が不穏に重苦しく、さほど量が入らない。

こんな時、普段なら目もくれないとろとろに煮込んだ卵粥がやけに美味しく感じられて朝に晩に小鍋いっぱい啜り込むが、消化要らずの優しさだけではやはり今ひとつお腹に力が入らない。実りの秋、せっかくなら五臓六腑を熱く震わすようなタフで厳つい食べ物もがしがし消化吸収して芯から滋養を得たいのだが、欲望ばかりが先立って体力が追いつかない。ただ食べるというだけの行為にこれほど体力を要するとは、当たり前のようで私には新鮮な感慨である。しかし、もともと体力があるからたくさん食べられるのか、たくさん食べるから体力がつくのか、私にとって世にある因果のジレンマは増幅する一方だ。 

タマゴが先かニワトリが先か、生きるために食べるのか食べるために生きるのか、食うために働くのか働くために食っているのか、健康な身体に健全な魂が宿るのか魂が健全だから健康な身体を維持できるのか。 環境が人を創るのか人が環境を造るのか、貧困だから不幸なのか不幸だから貧困なのか、脳ある鷹が爪を隠すか爪を隠す鷹がたまたま賢いだけなのか。

 ふむ。お腹から湧き出す力はさほどなくてもどこからか駄文はひねり出せそうな気がしてきたのでぼちぼちブログを始めてみようと思う。アカウント開設からおよそ半月、気長にじっくり育てていきたいと思います。

 

追記

 食べる力が尽きた時が死に時だと、いつも覚悟は潔いつもりだが。

同じ食卓で、消化不良の娘をよそにいつも通りのおうちごはんをいつも通り食べている両親の姿に安堵しつつ、いつか自らにも必ず訪れるであろう死に際の気分を胃のあたりで前倒しに体感しながら、一瞬触れたような寂しさの気配を打ち消すように、彼らと過ごす時間を意地汚く味わうためにも今のうちに消化に優しい延命レシピをたくさん覚えるのもまたよしと思う。

空と大地の間にあって風にざわめく稲穂のように、理想とエゴの乖離に揺れる女心と秋の空。