実家暮らしの手帖

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緩やかに下降する私の右耳

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先日、行きつけの眼鏡屋さんから連絡がありオーダーしていた商品が届いたとのこと。ついては実際に装着してフィッティングをしたいので手隙の時間によろしくご来店いただきたいとの旨。翌朝さっそく受け取りに向かう。

ちょうど1週間前、詳細な視力検査の末、私の右目の強度な斜位を見極めて、ひ弱な内直筋をサポートするためのプリズムレンズを処方してくれた腕利き店長のKさんが、今回もこちらが根をあげるほどの徹底ぶりで丁寧にフィッティングをしてくれた。

遠近両用と近々用にしつらえた2本の眼鏡のそれぞれにたっぷり時間をかけ、頑固な職人よろしく私の顔面の前後左右および側頭部における傾きを舞台役者みたいな同作で一つ一つチェックし、専用工具で確実にパーツを手直ししながら顔と眼鏡との理想的な一体感を作り上げていく。実際、私の顔の造作のあらゆるバランスの悪さを全て眼鏡側のフレキシビリティで包容させようってんだからそれはそれはご苦労な作業である。幾度にも及ぶ彼の根気を厚く労いつつ、この場合私にできる事はただ彼の気の済むまで一連の行程に付き添って黙って首を差し出すのみである。ヘアメイクとアロママッサージ付きならなお良いのになんて余計なことを思いながらも、手先が繊細な割に存在感が派手なK氏はその立ち回りを見てるだけで全く退屈を知らない。特にイケメンでもないのにここに来ると吸い込まれるように彼の一挙手一投足から目が離せない。店内にはK氏のほか少し年配の男性とぽっちゃり系の若い女性スタッフが在中しているが、K氏のオーラの強さに比して彼らの影の薄さはほとんど白昼夢の仙人と巫女のように印象が淡く拠り所がない。その点K氏の実体の濃さは晩秋の黄昏時でも真夏のカーニバル並みの暑苦しさである。

お客を前にすると、彼の頭上には特別のスポットライトが音を立てて次々点灯し、店の中は瞬時に彼独壇のエンターテイメントショーの舞台となる。商品を勧める口上はどこまでも滑らかで、かといって商魂丸出しのいやらしさもなく、あくまでお客様のニーズとお財布に寄り添ったハートフルな情熱を感じさせる模範的な接客対応である。おまけにちょっとした隙間のフリートークで自らのプライベート情報もちらつかせつつ客に親しみと安心感を持たせ、独特の語彙の言い回しでいつの間にか彼のペースにすっかり乗せられているのである。

とにかく一介の田舎店長にしておくのが勿体無いほど彼の仕事ぶりには華がある。有能なスタッフのいる馴染みの店を持つ事は、地方生活における意外と重要なファクターの一つなのだが、このK氏も私たち家族にとってかなりアタリの人材である。

その一家の信頼厚きK店長が私の眼鏡のフィッティングを終えて言うには

「以前よりも少し右耳が下がっていたのでそのように調整しておきました。」

それから彼はちょっとしたドヤ顔で磨き上げられた新品の眼鏡を私の目の前にかざして見せた。

ー 耳が下がって?

「僕も30過ぎたあたりに一度下がりました。またいずれ下がるでしょう。つまりその、人間は成長とともにね、色々なところが下がるんですよ。頰とか顎とか目尻とか。耳も同じです」

ー ああ、なるほど。

って一応納得はしたものの、耳が下がるという響きはなかなかに詩的にシュールだ。

「緩やかに下降する私の右耳」

単なる老化現象と知らなければちょっと素敵に色気を誘うフレーズのような気がする。

「あなたは知らないのね。私の右耳が、日々緩やかな下降を続けていることを」

なんて言われたら、私が男ならその場で女性の髪をかき上げて直接触れて確かめたいと思うかもしれない。

少しやんちゃな男性の「人生の酸いも甘いも知り尽くした俺の右耳はやがて静かに地中に還る。完全に闇と化す前に俺の過去を知りたくはないか」なんて言い回しもバカバカしいけど興味は惹かれる。

不惑を過ぎた私の身体に徐々に表面化する老化現象。顔面リフトアップの自助努力は始めるけれども。

山頂の崖っぷちで無理に歯を食いしばるのは大変そうだし。せめて耳をくすぐる詩的フレーズを命綱に、私はこれからゆるゆると人生の下降曲線をアルカイックスマイルで降りて行こうと思うのであった。