実家暮らしの手帖

食う寝る遊ぶに住むところの機微を綴るブログ

自然と野生と畏れといのち。

f:id:guri73:20191022174413j:plain

10月22日 国民の祝日 「即位礼正殿の儀」 

本日のメニュー:

・あさりの炊き込みご飯 ・カレイの煮付け ・さつま芋としめじの昆布煮

・タコの酢の物 ・白菜ときのこのかきたま汁

 

こんにちは、ぐりです。

 私の住んでいるところは町全体がぐるりと山に囲まれた盆地に拓けた小さな市街地で、半径500m圏内でおとなしく日常の用を足す限り視界に新しい刺激や驚きはほとんどなく、ただ遠く連なる稜線を仰ぎ見て平坦な時間の流れるがまま身を任せるのが常なのだが、時々こちらが思いもがけないタイミングで、見えない境界線を越えてきたあちら側の生き物が、人の暮らしの真ん中に突如現れて度肝を抜かされることがある。

薄暗い早朝の庭先で真正面から野生のタヌキと遭遇した時がそうだった。

地方柄、普段からそこらの山で鹿やらキツネの行き交う姿や、時にはクマの棲息跡なんてのも身近に見慣れてはいるのだが、タヌキを見るのはこの時が初めてだった。人と自然の境界を超え突然現れたその野生は、真夜中の闇をそのまま引き摺ってきたような真黒い塊の内側に二つの眼を怪しく光らせ、一瞬こちらを凝視したかと思うと、次には目にも留まらぬ素早さで建物の間の茂みの中へ息つく間もなく姿を消していた。

恥ずかしながらこのとき私は、目の前で起こった予期せぬシーンにえも言われぬ気味の悪さを覚えて足がすくむほど心底びびってしまった。私の動きを封じたのは、見慣れた日常の均衡を瞬時に乱した全く異質の生き物の持つ野趣の迫力だった。私は大自然の恵み豊かな土地に生まれ育ってなお、自分がいかに野生とかけ離れた生活をしているか、人工的に積み上げた薄氷の便利に慣らされて、本気の野趣が未だどれほどの畏怖の念を人に与えるかを改めて思い知った。

姪を初めて見たときの衝撃も同じくらい大きかった。

 生まれたばかりの姪っ子は人間にしてまだ人に非らずの自然そのもので、ちっぽけで儚げで未熟だけれどたくましいエネルギーだけがほと走る、ただ生きることに懸命な「いのちのかたまり」に見えた。

ついさっきまで羊水に浸っていた生き物が、今は妹の腕の中で本能のあるがまま乳をぐいぐい吸い上げる小さな唇をじっと見ていると、私は背筋がゾクりとするような不思議な感動と怖さを覚えた。神秘そのものと言えなくもないその輝かしい光景は、あの朝の獣と同じく、圧倒的な強さと不気味さの入り混じる野趣の迫力で、偉大なる畏怖の波に私を瞬時に呑み込んだ。

あれから2年。姪は二本足で歩くことを覚え、自分の歯でしっかりと食べ物を咀嚼し、私たちと同じイントネーションで私たちと似たような言葉を話すようになり、どんどん人らしく成長している。今ではあの畏れを与える迫力もずいぶんと影を潜め、安心して心通い合う私たちの仲間になりつつある。彼女のあっという間の成長ぶりは諸手を挙げて嬉しいような、ちょっとだけ寂しいような。

それでも、私があのとき感じたいのちそのものへの畏怖、畏敬の念はまるで変わることがない。自分を圧倒的に凌駕する大きな畏怖の存在を感じながら生きることはそんなに悪いことではないと私は思っている。それは人間の持つ万能への飽くなき欲望と傲慢を適度に自省させてくれるだろう。

「自然と野生と畏れといのち」私たちが普段あまりにも忘れているもの。文明化の歴史の中で無意識のうちに敬して遠ざけてきたもの。たとえ目に見えなくてもいつも繋がっているその境界の淵を、時に意識的に覗き見る行為は、私たちが考える以上に大切な意味を持っているような気がしてならない。